私は長い間、日記というものを続けられない人間でした。
小学生のころ、夏休みの宿題として「一日一行でもいいから書きましょう」と言われ、最初の数日は律儀に書くのですが、やがて三日坊主。習慣化させることが本当に苦手でしたね。

大人になってからも、きれいなノートを買っては最初の数ページだけ埋めて満足してしまう…そんな繰り返しでした。
けれどあるとき、「日記は毎日しっかり書かなくてもいい」という言葉をどこかで目にしました。
それを読んだ瞬間、肩の力が抜けたのを覚えています。
そうか、日記は“義務”じゃなく、“居場所”なんだ。
そう思えたときから、私と日記の関係は変わっていきました。
夜に開くノート
今、私のデスクのそばに小さなノートが置いてあります。
高価な手帳でも、凝ったデザインのものでもありません。
ネットショップ買った小さな無地のシンプルなノートです。
寝る前に寝室へ移動するちょっと前に。
ほんの数行だけ、その日の気持ちを書き残すようになりました。
「今日は疲れた」
「お昼に食べたパンが思ったより美味しかった」
「なんだか落ち込んでいたけど、友達の一言で少し救われた」
日記といっても、たったこれだけ。
でも、この「心のつぶやき」を書くことが、私にとって大切な儀式になっていきました。
書き出すことで軽くなる
頭の中でぐるぐるしていた思考も、文字にすると不思議と落ち着きます。
書きながら「あ、私はこれが気になっていたんだな」と気づけることもある。
怒りや悲しみを言葉にすることで、その感情が自分から切り離され、少し距離を置いて眺められるのです。
例えば、職場で嫌なことがあった日。
心の中では「もうやってられない!」と苛立ちが渦巻いていても、日記に「今日は腹が立った」と一文だけ書く。
するとその瞬間、気持ちが紙に移り、自分は少し楽になれる。
日記は、心の中の余分な荷物をそっと置いてくる場所なのだと思います。
喜びを閉じ込める
逆に、嬉しかったことを書き残すと、それが未来の自分への贈り物になります。
「今日の空がとても綺麗だった」
「駅で見かけた子どもの笑顔に癒された」
「コンビニで買った新作スイーツが最高だった」
こういう些細なことも文字に残しておくと、数か月後に読み返したとき「そうそう、そんなことあったな」と笑顔になれる。
過去の自分がくれた“幸せのメモ”が、未来の自分を励ましてくれるのです。

私は以前、数年前に書いた日記を偶然見つけたことがあります。
その中には、「今日は本当に疲れてしまった。でも、帰り道に咲いていた花がきれいだった」と書かれていました。
読み返したとき、疲れていた自分に共感しつつも、「花を美しいと感じられる心を持っていたんだな」と誇らしく思えました。
日記はただの記録ではなく、未来の自分とつながる手紙のような存在なのです。
誰にも見せない安心感
日記の良いところは、誰にも見せなくていいという点です。
SNSに投稿すると、どうしても「誰かに読まれる」ことを意識してしまいます。
けれど日記は、自分だけの秘密の場所。
だからこそ、どんなに弱い言葉も、格好悪い感情も、そのまま書ける。
「今日、何もできなかった」
「本当は孤独で泣きたかった」
そうした言葉を素直に置ける場所は、他にそうそうありません。
私は日記に本当の心を吐き出すたび、「大丈夫、私は私でいい」と思えるようになります。
誰かに理解してもらえなくても、日記が理解してくれる。
その安心感はとても大きなものです。
書くことで見えてくるもの
日記を続けるうちに、「自分は何に喜びを感じ、何に苦しんでいるのか」が少しずつ見えてきました。
言葉を積み重ねることで、心の傾向が浮かび上がってくるのです。
例えば、私が「ありがとう」と書いた日は、その後の気持ちが穏やかであることが多い。
反対に「疲れた」と書いた日が続くと、生活リズムを見直した方がいいサインだと気づく。
日記は、心の健康を測るバロメーターの役割も果たしてくれるのだと思います。
日記に残すのは、ほんの数行の心のつぶやき。
それだけで十分です。
大切なのは「今日の自分の気持ちを、大切に扱う」という行為そのもの。
ノートに文字を書き残すことで、私は今日の自分を見捨てずにいられる。
たとえ誰も気づかなくても、「私はここにいる」と証明してくれる。
その安心感が、日々の私をそっと支えてくれています。
これからも、私は寝る前にノートを開くでしょう。
そして、今日の小さなつぶやきを未来の私に届ける。
それが私にとって、静かだけれど確かな生きる力になります。