現代の生活は、常に音に囲まれています。
朝は目覚まし時計のアラームに起こされ、外に出れば車のエンジン音や信号機のメロディ。
職場では電話の音や人の話し声、家に帰ってもテレビやスマホの通知音が途切れることなく響いています。
音は生活を便利にし、時に安心を与えてくれるものですが、同時に私たちの心を絶えず揺さぶっています。
だからこそ、私は時々、意識的に「静けさ」を選ぶようになりました。
静けさに耐えられなかった頃
昔の私は、静けさが苦手でした。
部屋でひとりきりになり、何も音がしないと、すぐにテレビをつけたり音楽を流したりしてしまう。
静寂が「寂しさ」や「孤独」と直結していたからです。
音がないと、自分の心の声が大きく聞こえてしまう。
「今日もうまくできなかったな」
「これからどうなるんだろう」
そんな不安な声が頭の中で響くのを避けたくて、私は常に音で埋め尽くしていました。
はじめての“音を消す勇気”
ある夜、ふと「今日は音を消してみよう」と思い立ちました。
部屋の灯りを落とし、スマホもテレビも電源を切り、ただ静かな空間に身を置いてみたんです。

最初の数分は落ち着かず、胸がざわつきました。
「何かしなきゃ」という焦りが頭を駆け巡り、じっとしているのが難しかったけれど十分ほど経ったころ、少しずつその感覚が変わっていきました。
外から聞こえる微かな風の音や、自分の呼吸のリズムが鮮明に感じられるようになって今までノイズにかき消されていた“世界の静かな音”が、はっきりと届いてきました。
静けさの中で浮かんできた声
さらに耳を澄ませると、外側の音だけでなく、自分の心の声も立ち上がってきました。
「本当は、つかれたなぁ」
「大きなことじゃなくていい、安心できる毎日を過ごしたい」
「無理をして笑うより、素直に泣きたい」
普段は聞こえなかった本音が、静けさの中でははっきりと響いてきます。
それは時に苦しい告白でもあります。
けれど同時に、「これが私なんだ」と受け入れられるやさしさもそこにありました。
出会ったのは“ほんとうの自分”
静けさの中で出会った自分は、取り繕っていない、飾らない私でした。
誰に見せるわけでもない弱音や願望を、そのまま抱えている存在。
それは思っていたよりも無力で、同時にとても人間らしく、愛おしいものでした。
私は気づきました。
音でごまかし続けてきたのは、孤独そのものではなく、自分の心と向き合う怖さだったのだと思います。静けさの中でその心と出会ったとき、怖さよりも安心が大きく広がったのです。
静けさは空っぽではない


静けさは何もない空白ではありません。
そこには、自分の呼吸や鼓動、思考や感情といった“本当の生の音”が詰まっています。
テレビの音やSNSの通知に頼らなくても、私は生きている。
その実感を与えてくれるのが、静けさでした。
まるで深い森に足を踏み入れたときに感じるような、圧倒的な生命の気配。
静けさの中で、私はようやく「今、ここにいる」と感じられるのです。
静けさの中で出会える自分は、弱くて不完全だけれど、確かに生きている私そのものです。音に溢れた世界では見失いがちな「ほんとうの自分」を、静けさはそっと教えてくれます。
だからこれからも、私は時々、意識的にすべての音を消し、静けさに身を委ねたいと思います。
その時間は、空っぽのようでいて満ち足りた、私にとってかけがえのない大切な居場所だから。